2010年の南アフリカW杯で、日本代表はベスト16という歴史的快挙を成し遂げました。
この結果に大きく貢献したのが、ブラジルから帰化した『田中マルクス闘莉王』選手で、当時の日本代表の中心選手として長く活躍しました。
彼のように帰化選手が日本代表の主軸として活躍したケースは他にもあります。
そこで本記事では、サッカー日本代表で活躍した帰化選手を紹介していきます。
- サッカー日本代表として活躍した帰化選手を知りたい人
- 帰化選手のプレースタイルや活躍を知りたい人
サッカー日本代表で活躍した帰化選手
サッカー日本代表として活躍した帰化選手の第1号は、1974年の西ドイツWアジア予選に出場した『吉村大志郎』という選手です。
彼に続いたのが、1986年メキシコW杯予選に出場した『与那城ジョージ』という選手でした。
今回は、日本サッカーがプロ化されてからの日本代表(オフト監督時代)で活躍した帰化選手を紹介します。
日本代表として活躍した帰化選手は以下の通りです。
- ラモス瑠偉
- 呂比須ワグナー
- 三都主アレサンドロ
- 田中マルクス闘莉王
- 李忠成
※ハーフナー・マイクは幼少期に帰化していたため対象外としました。
ラモス瑠偉(らもす るい)
ラモスが武田に“怒り爆発”!!「ドーハの悲劇」の帰りの機内で武田がしたこととは?? https://t.co/cfSj0S9Swg pic.twitter.com/niJTDHA8Bt
— デジサカ⚽️ (@digital_soccer) September 23, 2018
生年月日 | 出身地 |
1957年2月9日 | ブラジル(リオデジャネイロ) |
国際Aマッチ | ポジション/利き足 |
32試合 1得点 | MF/右足 |
ラモス瑠偉は1977年の20歳の時にブラジルから日本に来日し、20歳の時に読売クラブ(現:東京ヴェルディ)に入団、その後日本人女性と結婚して1989年に日本に帰化して日本代表となりました。
来日当初は日本人になるとは全く考えておらず、帰化した理由は最愛の妻やその家族の為だと述べています。
ラモス瑠偉は、1994年アメリカW杯アジア予選で〝ドーハの悲劇〟を経験したオフト監督が指揮する日本代表の中心選手でした。
以下のようなプレースタイルの選手でした。
- ブラジル生まれの繊細なボールタッチ
- 巧みなドリブルとボールコントロール
- 高精度のラストパス
- 観る者を魅了するアイディア
当時の日本人選手にはないテクニックを持った選手でした。
テクニックだけでなく、〝闘将〟と呼ばれるほどの熱いプレーも特徴的でした。
日本人よりもサムライ魂を持っているような選手で、代表選では魂のこもった気迫溢れるプレーで、日本代表を牽引してくれました。
引退後は、Jリーグの監督だけでなくビーチサッカーで日本代表監督として4位入賞を果たすなど、日本サッカー界に大きく貢献してくれています。
指導者としてもそうですし、メディアでも取り上げられたり話題性のある人ですよね。
【⇓サッカー日本代表の歴代10番はコチラで紹介⇓】

呂比須ワグナー(ろぺす わぐなー)
https://twitter.com/SoccerKingJP/status/692908942570213376
生年月日 | 出身地 |
1969年1月29日 | ブラジル(フランカ) |
国際Aマッチ | ポジション/利き足 |
20試合 5得点 | FW/右足 |
呂比須は1986年の17歳の時にブラジルのサンパウロFCとプロ契約しましたが、代表クラスの選手が多く所属するサンパウロで、なかなか出番が回ってくることはありませんでした。
元ブラジル代表のオスカー氏に誘われるかたちで、日本の日産自動車(現:横浜Fマリノス)に入団し、3年後に日立(現:柏レイソル)に移籍しました。
その後JFLの本田技研工業で2年連続の得点王に輝くと、活躍ぶりと帰化した噂が広まり、1997年にベルマーレ平塚(現:湘南ベルマーレ)に移籍、同年に日本に帰化すると直ぐに日本代表入りを果たします。
呂比須ワグナーは、J1ではリーグ戦・カップ戦合わせて、154試合で92ゴールを挙げる活躍を見せました。
日本で得点を量産した呂比須ワグナーのプレースタイルは以下の通りです。
- 柔らかいボールタッチ
- どんな体制からでもゴールを狙える
- 長身・フィジカルを生かしたポストプレー
- 強力なミドルシュートも持っている
発展途上にあった日本サッカーにとっては、理想的なストライカーだったでしょう。
フランスワールドカップでは、W杯日本初ゴールとなる中山雅史の得点をアシストする活躍を見せ、日本の期待に応えてくれました。
W杯アジア予選を戦っている最中に母親が病に倒れた時は、当時日本代表を指揮していた岡田武史監督に帰国を促されましたが、呂比須は代表選手としての務めを果たすために代表に帯同することを選択しました。
その後のワールドカップ出場を決めたイラン戦に途中出場すると、岡野の劇的なゴールに繋がるボール奪取を見せ、日本代表が初めてワールドカップ出場を決める原動力となったのです。
〝ジョホールバルの歓喜〟の裏には、呂比須の日本に対しての熱い思いが込められていたのですね。
引退後はブラジルに渡って指導者に転身、ガンバ大阪のコーチやアルビレックス新潟の監督を務め、現在はブラジルでコーチとして活躍しています。
引退後も日本サッカーに貢献してくれました。
感謝の念が人一倍強い呂比須氏なので、またいつか日本に戻ってきてくれるのではないでしょうか。
三都主アレサンドロ(さんとす あれさんどろ)
元日本代表MF三都主が故郷ブラジルのマリンガへhttp://t.co/1suDz6bDJD pic.twitter.com/ROFsE0CYxw
— フットボールチャンネル⚽️ (@foot_ch) February 22, 2015
生年月日 | 出身地 |
1977年7月20日 | ブラジル(マリンガ) |
国際Aマッチ | ポジション/利き足 |
82試合 7得点 | MF・DF/左足 |
三都主は1994年にサッカー留学生として明徳義塾高校に入学しましたが、高校時代は全国大会とは無縁だったためほとんど無名の選手でした。
高校卒業後、清水エスパルスの練習に参加して契約を勝ち取ると、1997年に正式にエスパルスに加入となりました。
持ち前のスピードとドリブルで徐々に頭角を現し、1年目にしてJ1リーグ27試合に出場する活躍を見せるのでした。
三都主はスピードのある鋭いドリブル突破から、正確なクロスで数々のゴールを演出してきました。
三都主アレサンドロのプレースタイルは以下の通りです。
- 高精度なクロス
- 正確なフリーキック
- 鋭いドリブル突破
2001年に帰化申請が認められると、フィリップ・トルシエ監督率いる日本代表に招集され、2002年の日韓W杯のメンバーにも選出されました。
その後のジーコジャパンでは、2006年のドイツW杯で左サイドバックとして活躍しました。
2006年W杯以降のオシムジャパンでも代表に選出され左MFとして活躍、オシムジャパンのゴール第1号と2号を決め、アシストも多く記録しました。
代表歴は5年と短かったのですが、代表キャップ数を82まで伸ばし、日本サッカー界に大きく貢献してくれました。
引退後は、主にブラジルを拠点として選手の支援活動や選手の育成に力を入れて活動しているようです。
来日した際にはサッカースクールを開くなど、日本サッカー界に携わる活動を行っています。
今後も来日した際には、日本サッカーに貢献してもらいたいですね。
田中マルクス闘莉王(たなか まるくす とぅーりお)
<元日本代表DF田中マルクス闘莉王>日本代表「歴代最強ベスト11」選出!名手集結… https://t.co/qfFXq2lXaS pic.twitter.com/KACQVclcxS
— デジサカ⚽️ (@digital_soccer) May 8, 2020
生年月日 | 出身地 |
1981年4月24日 | ブラジル(サンパウロ州) |
国際Aマッチ | ポジション/利き足 |
43試合 8得点 | CB・CF/右足 |
闘莉王は1998年の16歳の時に、サッカー留学生として千葉県の渋谷幕張高校に入学しました。
高校卒業後の2001年にサンフレッチェ広島に加入→2003年に水戸ホーリーホックに期限付き移籍→2004年に浦和レッズに完全移籍するとレギュラーに定着しました。
2007年にAFCチャンピオンズリーグで優勝するなど、浦和の黄金期を築き上げ、浦和に在籍した6シーズン全てでJリーグベストイレブンに選出される輝かしい成績を残しました。
DFでありながら高い攻撃力を持ち、攻守にわたって活躍できる選手でしたね。
闘莉王のプレースタイルは以下の通りです。
- 圧倒的な空中戦の強さ
- 正確なロングフィード
- 足元の技術に優れている
- 高い統率力とリーダーシップ
闘莉王といえば思い浮かぶのが空中戦の強さですが、もともと攻撃的なポジションの選手だったこともあり、足元の技術にも優れていることが特徴でもあります。
熱い闘争心で海外の名選手にもひるまない・当たり負けしないフィジカルの強さ、高い統率力とリーダーシップで日本の最終ラインをコントロールしゴールを守ってくれました。
闘莉王と中澤のCBコンビは、歴代日本代表の中でも〝最強〟だったのではないでしょうか。
U-23日本代表にも選出され2004年のアテネオリンピックで活躍すると、A代表にはオシムジャパンの2006年に初選出され、日本代表の中心選手として定着しました。
2010年のW杯南アフリカ大会では、守備の要として4試合全てにフル出場し、自国開催以外で初めてのW杯決勝トーナメント進出に貢献しました。
スピードはありませんが冷静な読みとカバーリングで、相方の中澤と共にW杯での失点をわずか『2点』に抑える活躍を見せました。
2019年に引退した闘莉王は、現在はブラジルを拠点として『牧場経営』とYouTubeで『闘莉王TV』の活動を行っていますね。
日本サッカーに多大な功績を残してくれた闘莉王、まずは母国ブラジルでゆっくり身体を癒してもらい、いつか日本サッカーに携わるような仕事をしてくれることを期待したいですね。
李忠成(り だたなり)
ゲキサカ秘蔵写真[2011.1.29]李忠成(日本代表) https://t.co/0BLJiEyFQ8 #gekisaka #daihyo pic.twitter.com/I8Jy57gdE0
— ゲキサカ (@gekisaka) January 28, 2017
生年月日 | 出身地 |
1985年12月15日 | 日本(東京) |
国際Aマッチ | ポジション/利き足 |
11試合 2得点 | FW/左足 |
李忠成は、韓国国籍の在日韓国人4世の日本生まれです。
2001年にFC東京U-18に加入すると、2004年にトップチームに昇格しました。
その後、2006年に柏レイソルに移籍するとレギュラーに定着しレイソルのエースへと成長、それと同時に日本への帰化を決意して2007年に帰化申請が認められました。
李忠成のプレースタイルは以下の通りです。
- 前線からプレッシャーをかける豊富な運動量
- スピードを活かした俊敏な動き出し
- 貪欲にゴールを狙う泥くさいプレー
2008年の北京オリンピック出場を経験し、その後ザッケローニ率いる日本代表に選出されました。
李忠成のゴールの中でも印象的なのは、2011年のアジアカップ、オーストラリアとの決勝戦で決めたボレーシュートでしょう。
まさにビューティフルゴール!ボレーシュートの手本を見せつけるようなゴール、ヒーローとなった瞬間でした。
延長後半で決めたボレーシュート、どうしてあんなにフリーでシュートを打てたのか、たまたまフリーになったわけではありません。
李忠成のDFとの駆け引きのうまさ・動き出しのうまさがあってのゴールです。
日本代表を救った、李忠成の魅力が詰まったゴールといってもいいでしょう。
まとめ:帰化選手は、日本を愛し日本サッカーに貢献してくれた
- ラモス瑠偉
- 呂比須ワグナー
- 三都主アレサンドロ
- 田中マルクス闘莉王
- 李忠成
日本に帰化した選手は、サッカー大国ブラジル出身の選手が多いですね。
地球の裏側から来日し、不安や寂しいこともたくさんあったことでしょう。
それでも日本人以上に日本のことを思い、魂のこもったプレーで日本代表を牽引してくれました。
帰化選手の活躍があったからこそ、日本サッカーの成長があったのではないでしょうか。